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未来食堂通信

新店舗名

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次の店名は「LACERBA (ラチェルバ) 」。

由来はフィレンツェで1913年発刊した未来派機関紙「ラチェルバ」から。

1909年2月20日、フランスの日刊紙「フィガロ」に発表されたイタリア人マリネッティによる未来主義創立宣言。伝統的な美や様式の概念を拒絶し、未来が誕生する「始まりの時」のみを生き続けるという、職業上、100%思想化するには、いささか受け入れがたい部分もあるのですがが、この運動は今閉塞感を感じている「日本のイタリア料理業界の未来」や「飲食業界の未来」「大阪の未来」「自分自身やスタッフの未来」などを考える上で突破力を感じて気持ちがいいです。




詳しく知れば知るほど、未来派は「反・・」から始まり、分野によってはそれで終わってしまう、僕が20代でやめとこうと33歳ぐらいにやっと気付いたちょっとイタイ思想なのですが、いずれにしても、イタリア未来主義はヨーロッパの芸術や文学、演劇、音楽、建築などの各・多分野に影響を与え、結果的に新たな表現の可能性を切り開いたことには違いありません。




ピエール シェフェールの「ミュージック コンクレート」の数十年前にルッソロは「イントナルモーリ」や「ルモラルモニウム」でノイズ音楽の誕生ともいえる 新しい音楽を生み出し、バッラは1937年に「泣く女」でピカソが手を3本描いたよりも20年早く 犬の足を数えきれないほど描き、

アントニア サンテリアにいたっては 大友克洋が「アキラ」で2020年のネオ東京を描く100年前に2000年の未来都市を見事にドローイングしている!!!)<
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ちなみに「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。」とフィガロ紙で宣言したマリネッティの未来主義のスピードへの信仰を 剽窃の天才、寺山修二は「速度だ!走りながら存在する。止まっているのは風景だけだ」とパクったのだと僕は信じて疑わないし、これに気付いているのは日本で僕だけだと確信している)



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僕は日本のイタリア料理業界のほとんどが過去主義といってもいいぐらいの総地方料理店化に向かっていることを危惧しています。もちろん 自分が日本人であることを捨てきれないのと同じぐらい、イタリアの伝統料理/地方料理が現地で染み付いた自分はもはや それを捨てきれないし、自分の料理人としての本質や存在意義はそこにしかないと確信しています。


しかし同時に料理にしても他の文化にしても、現在が過去の革新や変化の連続の結果である以上、その役割に携わっていきたいと考えるのはプロなら自然な流れ。よくよく考えてみれば 仕立て服にしても、オーケストラなどの演奏にしても絵画や陶芸にしても過去の模倣や忠実性を評価や鑑賞の対象にしている職人分野などどこにもないのです。



だから そういうことを感じだした3年ほど前から「伝統料理」「地方料理」をテーマに掲げた「トレ ルマーケ」にきりのいい句読点を打つことに決めていました。もちろんトレ ルマーケを開店したころはあまりに換骨奪胎したようなアレンジ イタリア料理が巷に増えていたからそれはそれで意義があったことだと思います。
でも、その役割の割合は少し抑えて、店名も場所も内装も変えて「新しいイタリア料理」を創る理想と希望をもち、大阪の新しい形の文化の豊穣と新しい形の経済の発展を願って、次の段階に入っていきたいと思うのです。


今回イタリアの未来派を引き合いに出したの一つの理由は、何かの転換期には未来派のような多少のラジカルさは必要だしアバンギャルドが気持ちいいから。
ただ決して現代の未来派を標榜するつもりは毛頭なく、料理を頭でっかちな思想の道具にするわけでもなく、実験料理やジオラマティックな料理をするつもりもありません。
伝統料理や地方料理の延長上にある系統の脈絡は残しながら自分ならではの技術で美味しい料理をつくりたいだけです。




そして未来派を引き合いにだした、もう一つの理由は未来派の運動が文学、絵画、演劇、映画など様々なジャンルの交流と発展を促したように様々な分野での交流を 新店で生み出していきたいと思っているからです。
 ここで話は少し変わるかもしれませんが、日本全国と世界を魅了する、今勢いがある京都に対して大阪に欠けているもの、それは職人文化や芸術への「お引き立て」の意識の低さだと思っています。職人や芸術家を「贔屓」し「引き立てる」文化は昔から大阪人の商売人文化、庶民文化の中には薄かったのではないかと思っているのですが、それが現代の東京が主導する資本型大量生産のマーケティングに完全に飲み込まれてしまって、ほとんどの大阪の人間がそれを支えるのみの消費活動におちいってしまっている。全国のそういった街々がそのような状況になり、東京は潤い続け、これからもとことんハイパー都市化して、それはそれで東京はさらに人々を魅了する新しい文化や商品を生み出していく。

 一方の大阪はというと伝統・職人文化はより薄れ、芸術家は離れていき、日本全国や世界から見ると特徴を見出すことが難しい魅力のない街になっていくような気がしています。三島由紀夫が「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」と将来の日本を危惧したように。当然今の時代を考えると「或る経済大国」にもなれない。もちろん独自性のある中小企業やものすごい才能のある個性ある職人はこれからも大阪発で出続けるでしょう。でも彼らの意識は大阪に帰属せず、東京や世界を最初から目指していくでしょう。そんな状況が本当に大阪を豊かにし文化を彩っていくのでしょうか?


話がだいぶそれたかもしれませんが、三島を引き合いにだしたからついでに書くとして、結局僕がこの職業を通してやりたいことはただ一つ。


「何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ」
 
 三島由紀夫 「文武両道と死の哲学」より


これにつきます。


だいぶ散文めいてきましたが、これも良し。

ちなみに「ラチェルバ」は「ラ チェルバ」ではないです。いっこ空けずに「ラチェルバ」。
たぶん言葉自体に意味はない。それ
が未来主義。あったら誰か教えてください。

それでは 頑張っていきたいと思いますのでよろしくお願いします




by tre-lumache | 2015-02-23 03:46