未来食堂通信

カテゴリ:シチリア( 4 )

シチリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



突然秋がやってきました。もうすでに10月です。


頭の中はすっかり北イタリアの風景が広がり、真冬の日本でシチリア料理やってる店ってすごいな・・・・と思う今日このごろ、


そろそろシチリア-マン島の話も終わらなければいけません。



さて前回は当時の教皇がシャルル ダンジューにマンフレーディ討伐を依頼する前にイギリスに交渉

していたとこまで書きました。


その当時のイギリス王がヘンリー三世

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イギリスはもともと中世初期より 教皇の封建的家臣であり、その上 ヘンリー3世自身がキリスト
教に敬虔な人物で 教皇のコントロールがしやすい人物であったためです。



交渉によりヘンリー三世は末っ子エドマンドを推薦し、戦争に勝った場合、シチリア王国はエドマンドに与えられ、統治権が得られることなどを条件とし、ヘンリーはシチリア征服を行うことに仮決定しました。



そしてヘンリーは軍力のアップのため自国の軍隊だけではなくスコットランドにもシチリア参戦を要請します。


当時スコットランドはマン島を含むヘブリディーズ諸島とその海域の支配をめぐってノルウェーと覇権を争っていました。


その時のスコットランド王がアレクザンダー 三世。



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シングルモルト ダルモアのアレキサンダー3世は彼に由来・・・






彼はヘンリー三世の娘のマーガレットと強引に結婚させられていてイギリスと臣従関係にあり、イギリスがシチリアと戦争を始めた場合、自国とノルウェーの戦争と並行して当然のごとく友軍として参加しなければいけない状況でした。




しかし、シチリア討伐の気運がイギリス、スコットランド両国に高まる中、戦争のかかる費用はすべてイギリスが持つことなど、様々なイギリスにとって不利な条件が教皇側から課せられ ヘンリーはシチリア討伐を断念、交渉は決裂し、当然スコットランドも戦争に参加する必要もなくなりました。



一方スコットランドは、ノルウェーとの戦況を優位に進め、1266年パース条約によりついにマン島を含むヘブリディーズ諸島の統治権を得ます。


その結果スコットランドがマン島の国旗として使ったのがシチリアのトリナクリアと相似する件のデザインなのです。





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この相似の話に結局 史学的な証拠は存在しないそうなのですが


当時のシチリアの覇権をめぐり、スコットランドはシチリアを意識せざるを得ず、



マン島の神話、由来話だけでデザインされたにしては国旗として使われたタイミングが良すぎるようです。




というわけでひたすらトリナクリアをめぐる話をかいてきて、個人的にも大変勉強し、




碩学を深めることができたのですが一番気に入った三脚巴紋のデザインがあるので紹介。





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このデザインは先述の話から数世紀を経たフランス王ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)・・(ナポレオン一族もナポリ、シチリアと縁が深い)・・・の紋章










気に入ったのでアップにしてみる・・・・・




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足の回転が逆やんけ!!(憤怒)
その他 略





・・・・・・・フランス





このやられた感が、屈折した憧れと嫉妬に生まれ変わる。






トリナクリア 完・・・・・顔については来年書きます。そしてシチリア巨人伝説







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by tre-lumache | 2010-10-03 10:42 | シチリア

シチリア・・・・・


1254年 コッラードが没したときシチリア王を継いだのは息子のコッラディーノでした。



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                                      コッラディーノ



しかしこの時彼はわずか2歳 2代にわたって兼任してきた神聖ローマ皇帝の座には就くことができず、この後20年近く 大空位時代とよばれる期間に突入します。


かといってシチリア王の職務に関しても わずか2歳の幼児に務まるはずがなく日本の歴史でもよく登場する摂政にあてはまる職に就く人物が登場します。




それが先述の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と彼の愛人であるピエモンテ貴族ビアンカ・ランチア

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                                  (絵の中にいるのがフリードリヒ2世とビアンカ ランチア)


の間に生まれたマンフレーディでした。


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愛人の子である庶子マンフレーディはシチリア王には本来なれませんでしたが、コッラディーノの死亡説の流布を機にシチリア王国を事実上支配し、王位に就きます。



そしてシチリアのみならず南イタリアも掌握したマンフレーディはドイツとムスリムの後押しの元、全イタリア支配を目論み、教皇を脅かしだしました。




彼の父であるフリードリヒ2世は中央集権的イタリア支配とイスラム教文化への寛容、先述の幼児実験や彼の「ありのままに見よ」という言葉に代表される自然科学者的な思想からアンチ キリストのレッテルをはられ、ローマ教皇(グレゴリウス9世やインノケンティウス4世)と対立し2回破門になったほどの人物でした。




したがってローマ教皇はもともとフリードリヒ2世の時代からシチリア支配をおもしろく思っておらず、(ホーエンシュタウフェン朝のイタリア支配自体をというべきか・・・・・)

ましてや彼の庶子(愛人の子)であるマンフレーディのシチリア王 戴冠などあり得ない話で、なんとかシチリア奪回を模索しますが、


マンフレーディの軍事力があまりに強大でこれを断念、代わりに裏でコントロールできる(敬虔なキリスト教信者である)外国の君主にシチリア王位を認めて マンフレーディ討伐を依頼することを考え始めました。(いかなる支配者も考えることは同じ)




そして教皇ウルバヌス4世、クレメンス4世の要求の元、フランスの敬虔なキリスト教徒であるシャルル ダンジューがシチリアに遠征し、1266年 南イタリアのベネヴェントにおける会戦でマンフレディを戦死させるのです。



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マンフレーディの死






べネヴェントの場所(ナポリの近く)


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このあとシャルル ダンジュー(フランス)のシチリア支配、そして有名なシチリア晩鐘事件へとつながっていくのですが(先のファルソ マグロもこのころの料理だと言われている)、
そのシャルル ダンジューの前に 教皇はイギリスにシチリア遠征を交渉していたというのはあまり知られていない事実です。






つづく



最近は眠り病にかかっていてすぐ眠たくなる。
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by tre-lumache | 2010-09-28 02:24 | シチリア

中世

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トリナクリア(三脚巴紋)の シチリア → マン島 への伝播は紀元前にすでに果たしていたのは間違いない事実ですがあくまで文化レベルで、中世において トリナクリアは政治や統治のシンボルとして発展していったようです。


13世紀半ば シチリアは、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世(フェデーリコ 2世) がシチリア王も兼任していました。

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(父親はもちろんドイツ系だが彼の母はコスタンツァという元シチリア王女)



彼はシチリア、プーリア、カラブリアなどに200以上のお城をつくっているほど、神聖ローマ帝国皇帝でありながら南イタリアに深い関係があるのです。



写真はプーリアにある彼のつくった有名な8角形の城 カステッロ デル モンテ


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彼の逸話で面白い話があるので横道にそれますが一つ。


彼が幼少のとき育ったシチリアは統治国家がいくつも変わったその複雑な歴史のせいで多民族が混住し様々な言語が飛び交うマルチカルチュアルな土地でした。

そこで皇帝になった彼が行った実験というのが生まれたばかりの乳児を集めて乳母に完璧な健康条件のもと育てさせるが、但し乳児に対し一切言葉を語りかけることなくコミュニケーションを断絶した環境で育てると、何語をしゃべるのかというもの。


現代人の私たちからすると バカにしか思えない実験ですが、結果は想定外、不測の展開を見せ乳児はしゃべるも何も、全員 死んでしまったそうです。




まさか死んでしまうとは思いませんでしたが、思い当たるふしがあります。




僕は赤ちゃんではありませんが、忙しくもなく、緊張するでもない慣れた作業の中、黙々と仕事を続ける若手調理人と一緒に 仕込みをしていると  極々明朗に育ってきた健常なはずの僕は発狂してしまいそうになります。(あるいは鬱)





最低限度のコミュニケーションは精神状態を健全に保つ上で必要不可欠という現代の好例です。







話が大きくそれましたが、



彼は生涯3回結婚していて 2回目である1225年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの娘イザベルと結婚しコッラードという子を授かります。


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コッラード


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コッラード

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そのコッラードは1250年に父であるフリードリヒ2世が亡くなった後、22歳で神聖ローマ皇帝を継いだのですが 在位わずか4年、26歳の若さでこの世を去りました。




このあとシチリア王には誰になるのか、神聖ローマ皇帝は誰になるのか、ここにシチリアとマン島の関係につながるストーリーが見えてきます。



続く
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by tre-lumache | 2010-09-06 04:51 | シチリア

イベント

9月に開催される ミス ペペロンチーノ 2010の情報(画像)求む。



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写真は ミス ペペロンチーノなど吹っ飛ばすような

 


2008年度 シチリア州カターニャ出身のミス イタリア ミリアム レオーネ です。



2009年度 は カラブリア出身でしたが、どこがいいのかよくわかりません。















 
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by tre-lumache | 2010-08-01 01:41 | シチリア